この生あるは

 

 

                                                            宋 文洲

タクシーに乗って行き先を告げると「お客さんは中国の方ですか?」と聞かれ

ました。「はい。」と答えると「私は中国生れです。1956年に日本に帰って

きました。両親に絶対中国人と仲良くしないとダメだと言われ続けました。」

と言うのです。

 

日本の敗戦は1945年でした。中国は「日本国民も同じ戦争の被害者」という

考えの下でその後の数年間で日本の軍人と民間人を船に乗せて送還したはずです。

孤児達は地元の人達が育てましたが、両親のいる家族がその後10年以上、奥地の

西安で暮らしたとは理解できないです。その好奇心に掻き立てられ、彼の話を

聞くことになりました。

 

「奥地に逃げたので帰国できるとは知りませんでした。両親は山形県から満州に

渡った開拓民でした。敗戦後、軍人と役人が先に逃げたので、開拓民達は各自の

判断で逃げ道を決めました。山形県の開拓団は満州から西の方に逃げることに

しましたが、赤ん坊の姉が泣くということで団長に殺されました。私は西安に

着いて暫くたってから生れました。」(ドライバー)

 

「悲しい話ですね。殺さず地元の百姓に託せばいいじゃないですか。」(宋)

 

「団体行動なので皆が赤ん坊を団長に預けました。おっしゃるようなことは

後になって思い付くものです。それは母の一生の悔いでした